C・J・ボックス『越境者』(野口百合子 訳)
「巻を措く能わず」という。
Twitter等でその書籍を称賛する際によく使われている言葉であり、その気持ちも状況もよぉおくワカルのだが感想としてはやはり一種の思考停止であろうと思う。けれどまあ、実際そうなっちゃうのは仕方のない話であって、それを否定的に扱うことはできないし、ナンならまさに自分がいつもそういう状態であることも正直な話である。本シリーズに関しては。
だから毎回毎回、いつもいつも「そういうのばかりってえのはよくないよな」と考え、気持ちをしゃきっとさせてゆっくり読もうとするのである。あたまから音読するという手があるな、などと思ったりもするがかえって話が頭に入らないことは必至であろう。……もちろん、云ってみただけのことである。
このシリーズの登場人物たちとは比較的付き合いが長いから場面を脳内映像化するのにたいした時間は必要ないし、その自然描写にもかなり慣れ親しんできたような気がするので、かなりの高速で読み終えることができる。加えてその語りが丁寧であるにも関わらず素晴らしい勢いで進行するものだから、「巻」を「措く」必要性を感じる前に物語は終わっている。
……そしてまた、嗚呼と嘆息するのであった。「あーおわっちゃったよお」と。
今回は、気合い入れてゆっくり読んだ。
さて、このシリーズの大きな魅力の柱は2本在る。まずひとつめ。
主人公のジョー・ピケットは、本文中で何度も言われているように、トラブルの「ど真ん中に居合わせるという、不思議な才能」の持ち主で、その率は「異常」とも云われている「米花町の犯罪発生率」に匹敵するのではないかとすら思う(嘘)。基本真面目な主人公なので、普通にしていれば普通に、自然に囲まれた猟区管理官仕事の話が続くはずなのだがけっしてそうはならない。
状況で「やる/やらない」の判断があると、必ずやっちゃうのがジョーなのである。だから、毎回読者は「またかよ」と思いながらこう云ってしまうのである。──「だめだよお、ジョー」と。しかも、一話で何度も。
文庫表4の惹句をながめていただければ、もうそれだけですぐにおわかりであろう。
「情報収集のため、ジョーはテンプルトンの本拠地へ赴くが……」
ほら、まずこれが「だめだよお、ジョー」です。知事からの命令だから、という理由はあっても明らかに「だめ」です。現地に行ったら行ったで次々にまた「だめだよお、ジョー」をやってくれるのでホント期待通りのトラブル突入行なのでした。
もちろん友達思いだから仕方ないとか、家族思いだからそれは当然とか、まあいろいろな理由があるのはちゃんと分かるし読んでると納得しながらすすめちゃうのですが、だからこそ「だめだよお、ジョー」と思っちゃうのでした。フツーに考えるとジョーはもうすでに5千回ぐらい死んでるんじゃないかと思えるほどで、それが最終的になんとかなっちゃうのはひとえにジョーの真面目でド直球な性格とその行動原理によるものだと、そういうところは細大漏らさず書かれているので不思議と安心しながら読み進めることができるのですが、それでも毎回「だめだよお、ジョー」と云ってしまうのでありました。
もう一つの魅力の柱は、当然のネイト・ロマノウスキ。
この『越境者』はこの人の登場で始まる。そのガチガチのサスペンス描写は見事で、言葉にするなら──「さすがっすねえ、ネイトさん」というところか。ひたすらかっこいいので、映画なんかだとちょっと嫌われちゃいがちな登場人物になりかねないところなのだが、けっしてそうはならない。単にストイックとかクールとかそれだけが理由ではない。冷徹になりきれない比較的ゆるい部分をも作者はきちんと描写しているので、彼の魅力は重層的で、マーベラスな光線を発している。
重要なことは、ジョーが結果的にハッピーエンディングを迎える主人公であるのに対して、ネイトは比較的悲劇的な状況を抱え持ってしまう登場人物であることだ。もちろん両者ともにちゃんとおさまるべきところに決着するのであるけれど、ネイトはその超高精度の能力をしてもどこか不安定なエンディングをいつも迎えてしまうのである。彼の動きにはいかなる時も「さすがっすねえ、ネイトさん」と感じるのであるが、そのあとに「だいじょうぶっすかあ、ネイトさん」とこちらが思ってしまうような、そんな物語が続いてしまう。
それはこのシリーズ全体としての「対照実験」なのかもしれないし、あるいは全体のバランスをネイトが引き受けているということなのかもしれない。しかしそれでも、ネイトのジョーに対する視線は単なる陰陽や明暗を超えてこの物語の一種の批評ともなっており、それがただひたすら優しくかつ凛としているからこそ、このシリーズに深い魅力を与えている気がしてならない。
ゆっくり読んで、そんなことを考えた。考えながら読んだ。
この魅力の二本柱を支えるベースについては、いつも読みながら感じる。本作もまたそうだった。
「ジョー・ピケット」シリーズを読み続けてしまう最大の理由がその丁寧な状況描写にあることは、これまで毎回何度も感じ続けてきた。もちろん小説であるから優れた描写があることは小説としての当然なのであるが、この作者の場合、物語全体から考えれば比較的軽めのシーンにすぎない(と思われる)ところで、深い印象を与える描写が行われているように思う。最近の多くの読者にしてみれば、伏線バリバリの細部描写ではないかと思ってしまうかもしれない。実際そういうときもあるのだがほとんどの場合、登場人物の心境や環境の陰影をさりげなく、それでも核心を表現するかのように描写する。
(以下は主に既読の方に向けて)
今回の作品では、女性たちとの場面が特に印象的だった。たとえば。
10章。モーテルに宿泊するシーン。
17章。中古のATV(バギー車)を入手するシーン。
20章。ホテルに宿泊しようとするシーン。
これらのちょっとした会話のシーン。ジョーと当該女性との距離感やその反応だけで、現場を覆う様々な状況の意味やその立場の違い等が明瞭に表現され、かつ物語全体に関するある種のヒントも与えてくれる。
そして、
20章。こっそりキャビンを抜け出す──ただそれだけのシーン。
これはジョーひとりの場面であり、まことに「ただそれだけのシーン」であって、物語全体から考えれば必要不可欠とは言い難い比較的軽めのシーンにすぎない。ここに深い感動を覚えてしまう。自分でもちょっとおかしかないかと思えるのであるが、この丁寧で細部をないがしろにしない描写とその効用に物語としての深さをも感じてしまうのだ。ずっとこのシリーズに付き合ってきたから、ということだけがその理由ではない。その呼吸音や指先の動きが見えるような気がして、毎話このようなシーンに出会える喜びを感じるのであった。
テーマについて。
本作の原題「Stone Cold」がネイトとその行動様式のことを意味するのではないか、と三橋曉氏による文庫解説にある。確かにそう考えるのがふさわしい、と思った。
そして、本書をゆっくりと読み終えて考えた。「石のように冷たい」のは主人公ジョーが「越境者」として赴いたこの物語の「土地」そのもののことではないか。家族を思い友人を思い、また土地とその自然を思い、ジョーは生活し活動しているのだが、そこを離れ「越境者」として訪れた場所は自分が見知ったところからは明らかに異なる状況と人々によって構成される土地であった。このような単純な比較は適切ではないかもしれないが、そこが「Stone Cold」であるように思えたとしても仕方がないような気がした。前述したジョーと女性たちとの会話が結果的に描き出してしまう環境や状況も、この土地に対する示唆を原題が与えているように思えてしまったのだ。
確かにゆっくりは読んだが、それゆえにこそ、最後でドキドキしてしまった。
こう、ページをめくっていくでしょ。あせるなあせるな、とか思いながら。そうして「あれえ」と左の指先が意見し始めるわけですよ。
もう残されたページ数はかなり「わずか」。「え、うそでしょ」と口に出してしまいそうになる。このままだと『帝国の逆襲』状態に突入してしまうんじゃないか……。「そんなの杞憂だ」と毎度そう告げられながら読んでしまっているのだが、さすがに今回は「だいじょうぶ?」と思いながらだった。
そして/しかし、物語はパタンパタンと音を立てるように決着する。
当然のように「さすがっすねえ、ネイトさん」があり、そしてまた当然のように「だめだよお、ジョー」に突入する。
やはりこのシリーズはいつも一種の『帝国の逆襲』であるな。
それは今回も例外ではない。
次巻でまた「だめだよお、ジョー」と云うことにする。
了
⇒ TY (04/15)
⇒ mogami (08/11)
⇒ 牛の歩み (08/11)
⇒ mogami (02/19)
⇒ unagiinuko (02/18)
⇒ mogami (08/07)
⇒ 大分マン (08/03)
⇒ 昔友 (08/03)
⇒ 白 (05/30)
⇒ バーサーカーシスターズ妹 (05/10)